天保7年(1836年)〜安政5年(1858年) 青年時代
天保7年(1836年)
江戸葛飾郡本所相生町に生まれる
嘉永年(1858年)
神道無念流 斎藤弥九郎の練兵館道場に入門
安政5年(1836年)
大橋訥庵の門人となり、尊王攘夷論者になる
明治1年(1868年)〜明治18年(1885年) 徳川家公用人・静岡県県令時代
明治1年(1868年)
徳川慶喜の警護役を務め、徳川家公用人となる
明治3年(1870年)
東京から静岡へ移り、金谷開墾方頭取並となる
土族授産業事業として牧之原台地の開墾を始める
明治4年(1871年)
明治政府に登用されて上京する
明治17年(1884年)
静岡県県令となる
明治19年(1886年)〜明治22年(1889年) 静岡県知事時代
明治18年(1885年)
遠州社山に墜道を造り、天竜川の水を遠州地方に通水
富士田子浦港に石水門を設け、海水の逆流を防ぐ
明治19年(1886年)
地方官制の改正により静岡県知事となる
明治20年(1887年)
県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」を開校
明治22年(1889年)
4月11日に発生した東海道本線安倍川鉄橋付近の列車衝突事故により重傷を負う
事故の際の傷口から破傷風となり、それが原因で5月17日永眠する